禅語:主人公~自分の中の自分~
ここ数か月、デジタルデバイスに触れることに抵抗を感じていました。ですので何をしてたかというと
- 散歩(遠足レベル)で出かけて、山の頂上や河原で日が落ちるまで景色を眺める。
- もう携帯とかスマホなくてもいいんじゃね?➡全部解約する
- 図書館に入り浸って本を読む、ひたすらひたすら読む。
などなど、最低限やる仕事以外はPCから離れてました。長々PC前にいてもはかどらない仕事が、1~2時間でサクサク進んだりしたりで効率は良かったりする。とはいえ待ち受けだけでも携帯番号必要になったりで、本日再度契約しましたが・・・
なぜ禅語??
図書館にていろいろ読んだ中で感じたことが、
人間って1000年経てども2000年経てども、悩むところはあんまり変わらないな~
私は専門家じゃないですから、肌感覚な部分での感じですよ。というか最近本屋などなどでもアドラー心理学の本多いですが(先月はNHK「100分de名著」でアンコール放送あったり)、根源の部分って東洋・西洋問わないのかな~と。で自分のために記録する意味で、このブログで書いておこうと思い立ったのです。
中心的存在じゃない意味での「主人公」
主人公という言葉からは、演劇・ドラマ・アニメなどからイメージされるでしょう。また自分の周りの会社・学校・組織などでも、イメージされるかたが居るのではないでしょうか?一般的な意味の主人公はこういう所でしょうが、本来の禅語の主人公は違います。
物語も組織もしがらみから離れたところにある、本来の自分こそが「主人公」
物語の端役でも組織の2,3番手でも自分を全うしてこそ、主人公なんです。毎日毎日忙しくてドタバタしてて、自分を見失っていませんか??
時間に使われるのではなく、時間を使い得る。
「汝は十二時に使われ、老僧は十二時を使い得たり。」十二時は24時間の意味、趙州和尚の言葉です。
自分の時間を使われているのでは主人公足りえない、時間を使い得てこそ主人公として生きている自分がある。時間だけでなくても、忙しい日常や立場に使われてしまってはいないですか??そう問いかける意味で「主人公」という言葉があるのです。